では、B級ゲテモノ映画は観る価値がまったくないのでしょうか。
ないのです。ほとんどないのです。
というか、これは問題のたて方を間違っているのです。
B級映画とは、価値があるから観るものではありません。
その唯一の存在意義とは、暇つぶしなのですから。
かつてもそうだったし、今もなおそうなのです。
もともとB級映画というのは、映画がロードショーで2本立て上映されていた頃(地方館では今でもそうだけど)、おまけで上映された低予算映画。
おもしろすぎて本編を食ってはいけないし、かといってつまらなすぎて客を帰らせてもいけないし、もちろん製作費も納期も厳守だし云々云々、といろいろあるけれど、一方でその条件さえ満たせば多少いい加減でも許されたから、たまにわけのわからない変な代物がまぎれこんでくるのです。
現在一般に言われるB級映画というのは、それが拡大解釈されて、低予算のホラー映画やSF、それにポルノみたいなジャンルすべてを含むようになっていますが、まあ事態は似たようなものです。
この氏素性からも明らかなように、B級映画はさっと観流されるべき、あっさり消費されて忘れられるべき代物なのです。
それをわざわざ映画館に観に行く必要はないのです。
大学生ならいざ知らず、専業の映画感想屋ならいざ知らず、社会人はそれほど暇じゃないのです。
ビデオ屋はいい線です。しかし、まだ物欲しげな感じ。
毒にも薬にもならない暇つぶし、というB級映画に最もふさわしい出会いの場は、深夜のテレビでしょう。
監督も、役者も、多くの場合はタイトルすら知らない、あえて調べる気にもならない映画の群れ。
ギタギタにカットされまくった、時にストーリーすらろくに追えなくなった映画・・・つまらないのは承知のうえ。
どうせ疲れてるから、つまらないほうが神経にさわらなくて好都合。
B級映画の教えとは、くだらないものでも(時には)ないよりまし、ということかもしれません。
そこに加えて一つでも楽しある部分があれば、望外の歓びとしなくてはなりません。
しかし人生というのも(たぶん)そんなものでしょう。
トビー・フーパーがどうのとか、ジョージ・ロメロの昔の映画がなんだとか、ハーシェル・ゴードン・ルイスがどうたらとか、ラス・メイヤーの巨乳映画がどうしたとか、B級ゲテモノ映画をめぐる物言いは尽きないものです。
しかし、巷でよくきくB級ゲテモノ映画賛の多くには、B級であること、ゲテモノであることそれ自体を称揚するような、自閉した雰囲気があります。
別にいいのだけれど、でも、こういう物言いにのせられて、DVDを借りてきてはがっかりさせられた経験を多々持つ身としては、つい懐疑的になってしまいます。
「B級映画なんて、それほどのもんかあ?」
あまり期待してはいけません。
B級映画はしょせん「B級」であり、したがってB級映画に対するまっとうな賛辞は、通常は「まあこんなものかな」であり、最高(最低)でも「すばらしくくだらない」か「発狂するほどイカレてる」であり、その魅力の大半はキッチュのイカモノ趣味なのです。
過去のよじれた感性や突出した趣味が、時代のたゆたいの中で一時的な(部分的な)アピールを獲得することはあるでしょう。
しかし、それはしょせんマニアックでスノビッシュな領域に属するものであり、そういう嗜好の人だけが気にすればいい世界なのです。
映画『サウンド・オブ・ミュージック』で唯一許せないのは、家庭教師とやもめの軍人が(少年や少女の父親が)恋に落ちて、結婚してしまう部分でしょうか。
それは、ズルじゃないか、とわたしは思ったのです。
きっと少年たちのなかには、家庭教師にほのかな恋心を抱いた子供もいたはずなのです。
少年の恋は実らなくてもいいけれど、父親が奪ってしまうというのは、あまりに酷いではないか・・・。
立つ瀬がないとはこのことではないか。
密かに憧れていた女性を母親と呼ばなくてはならなくなったら、わたしだったら、絶対、不良になってやるとこぶしを握りしめ、本当にぐれてしまうでしょう。
『サウンド・オブ・ミュージック』は、軍人一家がナチスから逃れて、アルプスの山越えをするところで終わっています。
彼らがどうなったのか、諸説あります。
アメリカに渡って、『パートリッジ・ファミリー』になった、という説が一番説得力があります。
アフリカ系アメリカ人に変身して、ジャクソン・ファイブになったという説はちょっと信用できません。
軍人をやめた父親が飲んだくれてアル中になり、キャバレーの踊り子に夢中になったあげく、捨てられ(踊り子は、当然、マレーネ・ディートリッヒが演じる)、母親になった家庭教師は、数年後にナチのSS将校に偶然再会し、愛欲の世界に溺れてしまう、というヨーロッパ映画に取りつかれてしまったような説まであるのです。
いずれにしても、わたしとしては、家庭教師を父親に奪われてしまった少年に同情するだけです。
ある日、突然、若く美しい家庭教師がぼくの家にもやって来ないものだろうか、と夢想していた時期があります。
小学生の頃です。
若く美しい家庭教師に対して、わたしは最初冷たい態度をとるのです。
理由はいろいろ考えられるけれど、両親の愛に飢えている、というのが、一番典型的なパターンでしょう。
わたしは両親の愛に飢えてはいなかったけれど、若くて美しい家庭教師のためだったら、飢えているふりをするくらい何でもないと思っていました。
家庭教師は、わたしと心の交流を持つために、さまざまな努力を重ねます。
わたしは少しずつ心を開いていき、やがて家庭教師ととても親しく緊密な関係を築いていくのです。
少年にとって、若くて美しい家庭教師は、最初に出会うべき、年上の女性なのです。
この場合、年上の女性というのは、ほのかな恋心を抱く対象としての女性という意味です。
近所のおばちゃんは、年上には違いないけれど、この範疇には属しません。
この家庭教師願望がどこから芽生えたのか、考えてみます。
たぶん、『サウンド・オブ・ミュージック』からではないだろうか?
『サウンド・オブ・ミュージック』は(御存知のように)、若くて美しい家庭教師が母親を亡くした軍人家庭の子供たちの面倒を見る話です。
家庭教師は、軍事教練スタイルで育てられている子供たちを歌を歌うことで、文化的に育て変えようと努力します。
最初は反発されながらも、やがて家庭教師の努力は実り、子供たちは抑圧から解放され、明るく快活に個性を発揮し始めます。
この映画は、父親と母親の役割を描いた子育てメソッド映画とも解釈できるし、軍事主義に対する文化主義の有効性を説く映画と考えることもできます。
製作者たちの意図は後者でしょうが、そんなことはわたしにとってはどうでもいいのです。
『サウンド・オブ・ミュージック』は、少年と少女の前に突然、若くて美しい家庭教師が現れる映画なのです。
それだけでわたしには充分なのです。